『麒麟がくる』第十話感想 果たしてNHKに麒麟はくるか
竹千代、可愛いとか言っている連中
「ひとりぼっちの若君」
今回の見どころは、信長と竹千代の若き日の姿、といったところか。
いったい、天下人とはどのように描かれるべきか。
群雄割拠の時代には様々な武将がいる。
その中でも、天下人というのは、ただ一人の勝者である。
それも、なろうとしてなれるものではない。
知略、魅力は言うに及ばず、清濁併せ呑む器量、さらには運まで味方につけたとしても、なれない。
過去の名作大河ドラマ『独眼竜政宗』では、政宗をして「詰まるところ、人が天下を選ぶのではない。天下が人を選ぶのだ」と言わしめた。
そんな天下人に、かの徳川家康はなったわけである。
そういえば以前、BBCで、『歴史を動かした男たち』の中に、ナポレオンやスパルタクス、アッティラ大王などと並んで徳川家康を取り上げていた。
イギリスでも注目されるほどの男。
もちろん、勝者の論理はあるだろうから、歴史資料にも、徳川家にとって、都合の悪いことは意図して削除され、反対に、徳川家関連の業績や人物の評価は、大幅に誇張されるきらいもあるので、真に受けるわけにはいかないが、とにもかくにも、徳川家康その人に関しては、「なりたくてもなれない天下人」になったのであるから、何か他の人物と違っていたのだろう。
だから、当然に、竹千代は『神童』だったとの書き振りがあっても不思議ではない。
「敵を討つには敵を知れ、と申しまする。」
果たして年端のいかぬ少年、竹千代がどこまで『神童』だったかは知る由もない。
だが、信長と竹千代が将棋盤を挟んでする会話としては、緊張感が出ていたように思われる。
およそ武家の子ともなれば、お家のために死ぬ覚悟はできている。
今更、人質になることを恐れはしない。
それが今の甘やかされて育てられた子供とは違う点である。
今回のシーン、演じた子役が可愛い、などといった下世話な評価に落とし込むのは、見どころを誤ったものと言える。
子供を可愛がるしか能のない、現代の日本人の親には絶対に育てられぬ『神童』の姿を描いたのである。
また、信長も天下こそ取り損ねたが、事実上、手中に収めたといえる。
彼もまた、他の武将とは違っていた。
ただし、こちらは、『神童』ではなく、『うつけ』であった。
今回、弟に愛情を注ぐ母への言及はお馴染みと言って良いストーリー展開だが、 話し方や間の取り方や表情から、「こいつは、いつか何かをやらかすんじゃないか。」と思わせる、どこかピリピリとした空気感が伝わっていたようにも思う。
また、今回は、鉄砲に関する光秀とのやりとりもあり、やはり両者の出会いシーンには、緊張感が漂う。
光秀に限らず、今後の信長の人に接する態度にも注目が集まるだろう。
今回のこれらのやりとりは光秀による通算三度目の尾張潜入の中でのものであった。
強引にもNHKは、光秀に三回も尾張に潜入させて、主要人物と出会わせている。
若き日に関する資料のない光秀を歴史に関わらせる荒技と言って良いが、主要人物紹介の趣旨なのでそれはそれで良い。
が、一方で、今回は、貴重な前半の15分を駒に当てていたのはいただけない。
前回ブログでも予想した通り、架空キャラクターのオンパレードであった。
せっかくの後半の内容もこれでは、途中でチャンネルを替えたくなる。
毎度言うことだが、『駒がくる』ではないのだ。
今回は、NHKに以下の一句を付け加えて言っておこう。
前半の
15分は
命取り
お題が英語ということなので、アルファベットでも並べておく。
光秀、信長、竹千代、とくれば、後は、もう一人の天下人、『H・i・d・e・y・o・s・h・i 』に期待。
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