「働かない」時代の到来~「働きたい」けど「働けない」

「働きたい」という嘘

 

 「働きたい」などとテレビのインタビューでよく言っているが、心の底からそう思っているのか。

もちろん自分の好きなことを生業としている人はそれでよいが、大半の人間は働くこと自体は嫌なはずだ。

なのに「働きたい」と叫ぶのはなぜか。

「働きたい」ではなく「働かなければならない」からである。

なぜ「働かなければならない」のか。

賃金を得るためである。

金がなくては生活ができない。

働かざる者食うべからず、なのである。

眠い目をこすって朝早くから会社に行き、およそ知的活動とはほど遠い作業をさせられ、同僚や上司などとの人間関係に揉まれ、飲み会と称する馬鹿げた酒盛り会に参加を余儀なくさせられる。

こんなことを毎日、70歳(最近、70歳定年制が叫ばれている)までしなくてはならない。

右を見ても左を見てもこんな人間ばかりである。

右にいる会社員が左にいる会社員に向かって働くことの素晴らしさを説く。

すると、今度は左にいる会社員が右にいる会社員に向かって同じことを説く。

お互いに傷を舐め合うことで働くこと自体を崇高なものに仕立て上げていく。

自分は崇高なことを毎日行っていることを確認した会社員は、今日も上司に頭を下げる。

 

そう、資本主義社会では「働きたい」と叫べばそれは善人の証となるのだ。

反対に「働きたくない」などと言おうものなら、即、怠け者のレッテルを貼られる。

善人に見られたいからこそインタビューでそう叫ぶのだ。

つまりは偽善者なのである。

金がいるという露骨な本音を覆い隠すために、「働きたい」という『崇高なる』表現のオブラートで包んでいるに過ぎない。

もし、働いても賃金が得られなければ誰も働かないであろう。

賃金と労働の関係をスッパリ切断してもなお働く者がどこにいるだろうか。

それでも進んで働く者がいるとすれば、彼のみが「働きたい」という言葉を使うことが許されるのだ。

 

『働けない』現実

 

 しかし、いかに「働きたい」と叫んだところで、職がない。

もちろん現状、探せば色々な職があるだろう。

だが私は、近い将来、本当に、働くということ自体がなくなるような気がしてならない。

以前、テレビである企業が、大量のリストラを敢行し、代わりに一台の機械を購入した。

社長曰く、「機械は文句を言わないし、疲れないからミスもない。1日の生産量も大幅にアップする。初期投資は高いが、効率を考えれば従業員をカットしても割に合う。」

私はこの発言を聞いてゾッとした。

もうここまで来ているのだ。

以前から分かってはいたけれども、なかなか口に出して言う人はいなかった。

我々は、自らの生活を豊かにするために、技術の進歩を望んだ。

しかし、皮肉にも、その技術の進歩が、我々の職を奪っているのである。

このまま技術が進歩し続ければ、やがては人間がしている仕事の大部分を機械が代行することもあながち不可能とは言い切れない。

今ですら、皆さんがされている仕事が本当に人間しか出来ないものなのか、よく考えて欲しい。

 

 

最後に、タバコの吸殻を平気で道端に捨てている人に注意をした時、返ってきた言葉を記しておく。

「こうやって、吸殻を集める職をつくってやっているんだ。」

 

 

今週のお題「ホワイトデー」

 

ホワイトカラーなどと言っていられるのも今のうち