『麒麟がくる』第八話感想 果たしてNHKに麒麟はくるか その2
期待感をくじく演出
第七回でザ・戦国の一人である信長を探しに行き、ようやく出会える寸前で時間いっぱいになった。
あのような終わり方をされれば、信長に対する期待値はいやがうえにも膨らむ。
結局、今回の第八回、その期待に応えることができたのか。漁から帰ってきた信長が魚を庶民に売る・・・だけ。
もちろん、話の流れとして、帰蝶の密命を帯びて、変装してまで熱田に潜入し、信長探索に行ったことになっているので、光秀と信長が深く関わることはできないにしても、あまりにもお粗末というほかない。
あのような、魚を売る姿を一瞥(べつ)しただけで、信長の「人となり」など分かろうはずもない。
もっと、いかにも信長らしいエピソードを盛り込むべきであったと思う。
もちろん、私とて、織田家の嫡男という身分の高い人間に易々と会えないことぐらいは承知している。
ましてや、変装した光秀が、親しく声をかけるなどできないことはいうまでもない。
実際に二人が出会うのはずっと先のことになるのだから。
しかし、それを言い出せば、そもそも、帰蝶が、これから自分の婿となるであろう信長という男を見てきてくれぬか、などと光秀に命じることもあり得ないことだ。
さらに遡って、武家の娘が己の輿入れを拒絶することも当時としては考えられない。
ところが、それでは話が膨らまないものだから、NHKが何とかして考え出したのが、上記ストーリーであった。
私個人としては、こんなストーリーは愚にもつかない出来栄えだとは思うが、とはいえ兎にも角にも、前回の放送終了直前までで、何とか信長登場にこぎつけたのであるから、NHKとしては、そのまま膨らんだ期待を裏切ってはならなかった。
結果は、先にも述べたとおりである。
女で盛り付けられたストーリーと「釣り」の罪
歴史をドラマにするということは、やむを得ず、嘘をつかねばならないこともある。
真実の歴史など後世の人間は知る由もないからである。
かろうじて、書物などの資料にすがるほかない。
しかし、資料に書かれたことをそのままドラマ化するとなると、ドキュメンタリー番組のようになり、無味乾燥であまり面白くないこともある。
また、あまりにも、短くなりすぎて、大河のような長編ドラマにはできなくなる。
そこで、例えば、有名な吉川英治の『太閤記』のように、巧妙にストーリーをでっち上げて、さもそれらしく見せる技術が必要となる。
あえて言うなら、「嘘の盛り付け」を施さねばならぬのである。
盛り上げるべきところは一気に盛り上げる。
膨らんだ期待に肩透かしを食らわせるなど言語道断である。
今回など、魚を売る信長をわずか見せただけで、光秀はすぐに美濃に帰り、うじうじと思い悩んでは母親に励まされ、三角関係の頂点の一角にあっては女にチヤホヤされ、要は女性に慰められて生きる男の姿を描いていた。
そういえば帰蝶も子供時代の光秀の泣き虫話をしきりに持ち出していた。
光秀とて女なしでは生きられない一人の男だったと印象付けたい思惑が垣間見える。
ついでに、父・道三との確執が色濃くなる息子・義龍も結局、母親に甘えていた。
戦国時代の男も現代の男もみんな、およそ男は女なしには生きられない子供と同じだ、とでも言いたいのであろうか。
『太閤記』には遠く及ばない、全くもって下手くそな「盛り付け方」である。
いや、下手くそだけでは済まない。期待を膨らませた前回の終わり方から見て、NHKはこともあろうに信長を使って、魚ではなく、視聴者を釣り上げようとしたのだ。
第八回で明確に期待を裏切っていることからすれば、これはまさに、詐欺的手法と言っても良いと思う。
ということは、今回の第八回の終わりで、今川義元が息巻いていたが、あれも間違いなく「釣り」だろう。
今週のお題「卒業」
NHKは「釣り」を卒業せよ。