英語教育がいかに無意味か

 大事なのは英語ではない。話す内容だ。

話す内容がお粗末だと、結局、表現手段に過ぎない英語も幼稚なものになってしまう。

だから、英語でも何語でも語学をやる前に、頭を使って、考える習慣を持て、と言いたい。

そもそも語学など、それを母国語としている人間にしてみれば、物心がついた時からしゃべっているもので、何も珍しいものでも、ありがたいものでもない。

日本人は日本語もまともにしゃべれないのに(昨今あふれる、グダグダの日本語を想起してほしい)、やたらと英語をしゃべりたがる。

そして、ペラペラ英語をしゃべっている者をすごい、すごいと誉めそやす。

戦後、アメリカによってもたらされた英語教育が日本の津々浦々に染み渡った結果であろう。

また、やたらと留学、留学というが、日本の古き良き文化や歴史をないがしろにし、身も心もアメリカに委ねるのなら、一層のこと留学といわず、国籍を取得して、一生海外に住めばよい。

他国に住んでみて、初めて、その国の厳しさが理解できるであろう。

ほんの一時、海外旅行したり、留学したぐらいで人間がどう変わるのであろうか。

今回は、この日本において、英語教育がいかに無意味なものかについて考えてみたい。

 

 

目立つものは叩かれる田舎臭い風習

 

 英語で会話するためには、文法や単語ももちろん重要だが、発音や喋り方まで意識しなければならない。

前者は、他の科目と同様に机に向かって勉強すれば、なんとかなろうが、後者はそうはいかない。

少なくとも、学校では、当然ながら、一人ずつ立たせて皆の前で、英語を発音させられることになる。

さて、ここで、大問題が発生する。

英語の発音は日本語のそれと比べても奇怪な音が多い。

例えば、Rは巻き舌、Lは舌を上の歯の裏側に付ける、Vは上の歯で下唇を軽く噛む、Pは日本語よりも破裂音であることを意識する、などである。

こういった音を皆の前で堂々と発音せねばならない。

国語の時間に朗読をさせるのとはわけが違う。

小学生の段階では楽しく笑顔で発音の勉強(お遊び)をするのだろうが、中学生以降の多感な年齢になるとそれでは終わらない。

下手な発音は嘲笑を買うし、よしんばうまく発音できたとして、先にも述べた通り、日本語とは明らかに違う異質な音を発する少年少女を周囲が受け入れるかの問題がある。

もちろん、それがきっかけで、人気者になる子供もいるだろうが、残念ながら日本では、出る杭は打たれるの例は何も大人だけのものではない。

子供の世界とて同じなのである。

語学というものは、他の科目と違って、一種のパフォーマンスなのである。

言葉は学問というよりも相手とのコミュニケーションツールであり、であればこそパフォーマンスとは一体不可分なのだ。

だから、大袈裟に喋れば喋るほど評価も高くなるという性質を持つ。

英語では、発音の他に、アクセントやイントネーションにも気を配り、パフォーマンスの精度を上げていかねばならない。

全ては相手とのコミュニケーションをより深くするためである。

だから、他の生徒の前でいわば、寸劇を披露するに等しいのである。

劇が好きな子供はまあよいが、ほとんどの生徒は、そうではない。

それは、恥をかきたくない、という思考経路を必ず通過するからである。

そう、つまり、下手をするとピエロになりかねないのである。

そうならないためには、教師に当てられても、苦笑いをして、真面目に発音しないに越したことはない、と考えるだろう。

言いたいことを主張してきた欧米人の性格と、出る杭は打たれる日本人の性格の差である。

こういった性格は長い歴史的経緯に由来するものであり、この呪縛から逃れるには相当な覚悟が必要だろう。

いかに小学生から学ぼうが、英語が上達しない理由がここにある。

 

 

言語体系が日本語とまったく違う

 

 

 常識的に考えてもらいたい。

フランス人やイタリア人、ドイツ人が英語を習得するのと日本人が英語を習得するのは果たして同じといえるだろうか。

前者の方が幾分有利なのは明白である。

それは前者の方が基本的に英語と同じ言語体系を有する言葉を普段から喋っているからである。

私は大学時代、第二外国語としてフランス語を学んでいたが、はっきり言って、フランス語の方が発音も文法も複雑である。

名詞一つとっても、男性名詞、女性名詞に分かれているし、一つの動詞が主語に応じて英語以上に変化する。

過去形もご丁寧に複合過去、大過去、半過去、単純過去、前過去と5種類もあったりする。

発音でも鼻に抜ける鼻母音があったり、最も悩ましいフランス語独特の"r"の発音は有名である。

もちろん、フランス語と英語は違う言語であるから、フランス人も英語の学習に戸惑いはあろう。しかし、英語の壁を乗り越えるのは日本語を喋っている日本人より早いであろうことは容易に想像がつく。

つまりは日本人が英語を学ぶには、フランス人の何倍も努力しなければならない。

小学校からお遊び程度に英語の勉強を始めたところで、乗り越えられるような壁ではない。

 

 

 英語よりも大切なもの

 

 だいたい日本人は海外留学や海外旅行など海外という名のついたものをやたらとありがたがる傾向にある。

「海外旅行したら世の中の見方が180度変わる。人生にとって得難い経験ができる。」などとハワイへ旅行しただけの人間が、真顔で言ってくる。

適当に相槌を打って返すが、内心は、「一体こいつは何を学んできたんだ。」といつも疑問に思う。

学んできた中身を見せてもらったことなど一度もない。

「お前程度の能力で得られるものなどたかが知れている。隣町で一泊して得られる内容と大して変わりはない。」と心の中で言い返している。

新聞紙などでよく募集している投稿論文やこのはてなブログでも海外での体験談はなぜか大きく紹介される傾向にある。

いくら読んでも何がそんなに素晴らしいのか理解できない。

海外という印籠を振りかざせば、皆がひれ伏すとでも思っているのだろうか。

重要なのは、海外へ行くことでも、英語をしゃべることでもない。ましてや、「あの国ではああだった、こうだった」と自慢げに語ることでもない。

本当に、世間の見方を180度変えたければ、思考することである。

海外へ行ったからといって周囲は何もしてくれない。

もちろん現地へ行けば、テレビや本で接するよりも臨場感はあるかもしれない。

しかし、結局、学ぶのは己自身である。

その国へ行って、言語だけでなく、歴史や文化や地理など多面的な観点から、人や、物に接する。

「なぜこの国の人はこういう考え方をするのだろう。この遺跡はどうしてこんな場所にあるのだろう。」などといろいろ考えてみる。

そして、その国の道徳律や倫理観の奥底に触れ、国民ごとその国を理解する。

その上で、日本人の一般的な思考方法と比較して、どこがどう違うかを暴き出してみる。

もっとも、こんなことは、過去の文献を読めば、すでに暴かれている。

今さら、わざわざ海外に行っても新しく世の中の見方が180度変わるほどの発見などそうはない。

だから僅かばかり日本から出ただけで、出ていない者との間に大きな差をつけたかのような上から目線の人間にはうんざりする。

思考する習慣のない人間が、下手くそな英語を振りかざして、海外へ行っても得られるものなどありはしない。

 

 

 

冒頭にも書いたが、現在、訳の分からない日本語がはびこっている。

日本人の言語に対する接し方の表れである。

そんな人間が、英語を勉強するなどちゃんちゃらおかしい。

今、学ぶべきは、英語ではなく、日本語であろう。

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