『麒麟がくる』について思うこと

共感される人物像を描け

 

 明智光秀は日本人ならば誰しも知っているほどの人物である。それだけに、ドラマに対する期待値も当然上がる。

だから、NHKもその期待に応えなくてはならない。

主人公の光秀は言うに及ばず、彼を取り巻く人物も有名人ばかりなのだから、期待通りの人物像でなければならない。

要求される性格やふるまい、顔つきに至るまで再現されないと視聴者の理解は得られまい。

「ああ、これだ、これ。」という共感を得る必要がある。

変に奇をてらったような人物像は控えるべきである。

『いだてん』に出てきた登場人物は知名度が低かったため、人物像の決定にはある程度幅があったであろうが、今回はそのような幅はないと言ってよい。

みんなよく知っている人物ばかりだからだ。

頭に思い描いた通りの人物像でなければ、もはやついていけなくなる。

 

 

架空の人物大活躍の悪い癖はやめろ

 これに関連して、注意しなければならないのが、架空の人物の登場に関してである。

大河ドラマは以前から妙な癖がある。

歴史上全く存在しない人物を登場させたうえ、その人物が大活躍するのである。

あたかもその人物がいたからこそ、主人公が歴史に名を残せたかのように描く。

全くのデタラメである。

歴史改変に等しい。

視聴者が見たいのはそんなわけのわからない人物の活躍ではない。

主人公やそれを取り巻く歴史上の人物の活躍を見たいのだ。

もちろん歴史ドラマはどこまでも虚構にすぎないが、それにしてもある程度記録も残っているし、ましてや戦国時代などもはや、多くの人々の頭の中に、「こう来たらこう来る」という共通項でくくられ、了解された一連のシナリオが存在する。

それを一人の架空の人物が引っ掻き回すのは、視聴者への裏切り行為であり、歴史への冒涜である。

脚本家はこのことを肝に銘じておかねばならない。

自分の特徴を出そうとして考え出された架空の人物は、結局、万人の共感を得ることはできない。

あくまでオーソドックスに、正面から描いてもらいたい。

かつて、独眼竜政宗の視聴率が高かったのは、これができたからに他ならない。

昨今の大河ドラマの視聴率が低いのは、視聴者の時代劇離れのせいばかりではない。

NHKの大河制作陣の真正面から歴史を描かない姿勢にあるのだ。

奇をてらった冒険はするな、と声を大にして言いたい。

 

腑に落ちる大河ドラマであることを祈るばかりである。