新幹線殺傷事件の判決を受けて、死刑廃止論者に聞きたい

 もちろん今に始まったことではないが、凄惨な事件が起こる度に私はいつも考える。「世界の潮流に倣って日本も死刑を廃止すべきだ。」などと言っている人間のことを。彼らは、普段は堂々とご自分の論拠を並べたてていらっしゃるが、ことこういう事件が起きると一転しておとなしくなるような気がする。

私は、こういう時こそ彼らに聞いてみたい。

「今回の事件では、被告人の目論見通りの無期懲役の判決が出ましたが、これで満足ですか?被告人は万歳三唱までしていましたけどあなたも心の中で万歳したのですか?仮釈放になれば刑務所に入るため再び人を殺すと陳述していますが、よろしいのですか?次、殺されるのはひょっとしてあなたの身近な人かもしれないですよ。その時にまだ、死刑廃止などと言えるのですか?」と。

私は、どうしてこの世の中に死刑廃止論などという理屈が堂々とまかり通っているのか不思議でならない。

そして何より私が憤っているのは、テレビで死刑廃止論者のもっともらしい理屈を聞いて、うんうん頷いている視聴者である。

死刑廃止論に関しては、ずいぶん昔に極めて著名な刑法の学者が論拠付けを行っており、相手を説得するように仕組まれている。

また、フランスをはじめ、死刑を廃止している国の存在も後押しする。

こうなると、それを個別の事件とは無関係に一理論として聞けば、あるいは説得される人も出てくるのかもしれない。

加えて言うなら、死刑廃止は、犯罪者ではあっても、人間の命を救うことになるため、人助けと錯覚しやすい。

反対に、死刑賛成と力説すると、何か殺人を容認するかのようで、悪者のイメージが付きまとう。

こんな奇妙な人間の心理から、死刑廃止論に賛同する一般人が少なからずいる。

そういう類いの人間は、今回のような凄惨な事件が起きると今度は、遺族の記者会見などを見て、「遺族のことを考えればこんな被告人は、八つ裂きにしても足りない。死刑は当然だ。」などと、昨日聞いた死刑廃止論も忘れてのうのうと鞍替えする。

「どの口が...」と言いたくなるが、要は、ご都合主義なのである。

とにかく自分は、善人に思われたい、つまりは、偽善者なのだ。

 

「目には目を」で有名なハンムラビ法典の昔から、人の命を奪った者は、その者の命をもってしか、償い得ない。

同害報復である。

私は、この同害報復であっても被害者にとっては、百歩譲っているのだとすら思う。

事件にもいろいろあるが、今回の事件のように、何の落ち度もない善良な一般人が、犯人の身勝手な我欲によって、殺されたような場合は、犯人の命一つで償ったことになるのか、果たして疑問である。

しかしながら、実際問題、それで我慢するしかない。

死刑でも正直言って不満であるのに、無期懲役など論外である。

ましてや、「3人殺せば死刑になるから、2人までにしよう」などと言っていることからして、犯人は狡猾にも、日本の司法の甘さを利用しているのだ。

 

反省もきっぱりと否定し、再犯をちらつかせつつ、万歳三唱して喜ぶ被告人に無期懲役の先例をつくってしまった今回の事件。死刑廃止論者に意見を聞いてみたいものだ。