文明の犠牲者

今週のお題「わたしと乗り物」

    5月8日の翌日のことだったと思う。新聞の一面にこの社会が抱える矛盾が掲載されていた。つまり、大見出しにはトヨタ自動車の利益は~兆円という文字が踊り、一方、その記事のすぐ隣には大津の交通事故による園児2人の死亡のニュースに等量の紙面が割かれていた。かたや車でぼろ儲け、かたや車でかけがえのない命の灯が消えた。もちろん、これはあくまで新聞記事ゆえ、単に事実を記載しただけで、それについての評価は書かれていない。しかし、私はこの記事の配置を決める“構成”をした者の正気を疑う。車社会の明暗をうまく一面に掲載できてご満悦なのだろうか。言葉が過ぎたなら申し訳ない。新聞づくりに携わる方も仕事でやっているのだからたまたまそうなったにせよ、意図してそうしたにせよ、責められるいわれはないと言われればそうなのだろう。が、亡くなった2人の命はもう戻ってこない。こんな構成の仕方をするのなら、一言、問題提起をすべきだったように思う。車社会は正義なのか、と。車社会と正面から向き合って、様々な意見を求めるなり、専門家の意見を聞くなり、車と人との関わりの歴史を紐解くなどして、車社会の是非を問うてほしかった。田舎では移動手段がないからお年寄りが車を持つのは仕方ないのはまだ理解しやすい。が、である。現状、この社会は目的地到達までの時間の目安としてほとんどが、車で〜分、というように、もはや車基準で考えられている。就職するにも車の免許がなければその間口は相対的に狭くなるだろう。身分証明書として不動の地位を得ている。はたまた、女性の男性選びにも車の免許を求めてくる現状もある。(少なくとも男性はそう思っているだろう。)車の有用性など挙げればきりがないじゃないか、ともかくも、車のない世界など考えられない、何をするにも車は必要である。日本の輸出品目の最も重要な物は車だ、だから、車のメーカーが潤うことは、この日本経済のバロメーターだ。何兆も儲けて、結構な話じゃないか。もっと作ってもっと売ってくれ。日本の景気回復のためにも。だから車の免許のない人間は身分証明どころか、人間としての証明もできないのだ。以上つらつら、極端ではあるが、車絶賛の意見である。これは実際、私の元同僚がここぞとばかりに言い放った言葉である。当然のごとく、右に同じと他の者も首を縦に振った、彼の言うところによればこれぞ支配的見解?だそうだ。ただ一つ付加せねばならないのは、この発言がなされた時は交通事故が目立って話題になっていなかったということだ。さすがに痛ましい交通事故を目の前にすればこんな発言は慎まれるべきだ。しかし、かといってこの種の意見は決して消えることはない。車を前提とした生活をしている者たちにとって車社会を否定することは自分たちの首を絞めることにつながるからだ。では、車の無謀な運転によって亡くなった被害者についてはどう考えれば良いのだろうか。まだ自分で自分の身を守ることすらできない幼い子供達の死を。確かに、文明のもたらす恩恵を社会全体で享受しようとすればその弊害も社会全体で分かち合わねばならないのだ、と一般論で締めくくることはできるかもしれない。しかし、これは、恩恵と弊害を結ぶ社会という架け橋の上に人間が立つことが文明であるということだ。要は、社会の中の誰かが利益を得る一方で関係のない別の誰かが犠牲になることを容認する厳しい考え方だ。人間は現在に至るまでこうやって文明なるものを育んできたのであろう。であるなら、連日のように報道されている交通事故で失われた命と引き換えに得た文明とは何であろうか。その人の生きる権利と引き換えにするだけの価値はあるのだろうか。幼い体に車社会の影の部分を無理矢理背負わされてあまりにも短い生涯を閉じた文明の犠牲者を前に悲しみと憤りが同時に襲ってきた。あの新聞記事は未だに私の脳裏にしっかりと刻まれている。