ブラタモリにて 質問「法隆寺を建てたのは誰」 NHKアナ「たくさんの人たち」

 

歴史を知らなくてもNHKアナウンサーになれる?

 皆さんは本日のタイトルの質問に答えられるだろうか。

正解は聖徳太子だが、本日からブラタモリのアシスタントを務めるNHKの女性アナウンサーは答えられなかった。

確かに私とて、日本の古代史は苦手である。

高校生の時、試験問題で仏像の名前を全て漢字で書かされたのが原因で、日本史が嫌になり、世界史を選択したクチである。

まあ、日本史で仏像の名前を書かせることの是非はともかくとして、今回のブラタモリのテーマ・法隆寺といえば聖徳太子であることぐらいは私でも覚えている。

この時代でまず有名人といえば聖徳太子だろう。

にもかかわらず、このNHKの新アシスタントはなんの予習もしていなかったようだ。

前もって収録までに予習できたはずなのに。

もっと言えば、予習も何も、彼女はこの質問には正解せねばならなかった。

なぜか。

彼女はお笑い芸人ではなく、NHKのアナウンサーだからだ。

日本や世界の地理や歴史は最低限知っていなければ、正確な報道は出来ない。

逆に言えば、こんなことも知らない人間が伝える情報など信用できない。

いかに歴史嫌いでも、それは通らない。

 

 

「柿食えば」「鐘が鳴るよ(?)法隆寺」でもNHKアナウンサーになれる?

 そして、さらに番組は進み、彼女は最大の間違いを犯した。

法隆寺の前に差しかかり「では一句」とふられたタモリさんはすかさず、「柿食えば」と言い放った。

例のアシスタントは、続けて、「鐘が鳴るよ法隆寺」と答える始末。

これが正解だと本当に思っているのだろうか。

どう考えてもあり得ない答えだとは気づかないのだろうか。

即座に、「『鳴るなり』です」と訂正されていたが、彼女はどう思ったのだろうか。

「『鳴るよ』も『鳴るなり』も意味はだいたい同じだろう。末尾が少し違うだけじゃないか。」ぐらいの軽い気持ちではなかろうか。

いやしくも報道に携わる者ならば一言一句言葉を間違えてはならない。

報道における正確性は何よりも重要である。

お笑い芸人でもあるまいに、笑いをとりに行こうとでも思ったのか。

歴史はおろか、言葉も正確に話せない人間が報道に携わるなど、世も末である。

これで、彼女は出身大学やNHKにドロを塗ったことになる。

こんな人間でもNHKに入社できるわけだ。

NHKは一体どのような選考基準でアナウンサーを採用しているのか知りたくなる。

とにかく、NHKはこの女性アナウンサーに厳しく注意する必要があると私は思う。

 

 

今週のお題「わたしの部屋」

 

 

さぞ、周囲からチヤホヤされて育てられてきたのでしょう。

ゆとり教育ですか?お嬢さん。

どういうお部屋に住んでおられるのかだいたい想像つきます。

部屋を可愛く飾るのは結構ですが、日本語と歴史の勉強もした方がよろしいのではないですか?

 

『麒麟がくる』第十二話感想 果たしてNHKに麒麟はくるか

嫁がくる

 

 今回は『十兵衛の嫁』ということで、煕子殿が嫁にやってきた。

が、実は、ほとんどこの件に関しては駆け足だった。

それで良い。

あまりダラダラとやられると本筋から離れてくる。

『煕子がくる』ではないのだから。

でも、それなら、なぜ、駒と光秀とのやり取りをあれだけダラダラやったのか。

その辺りの感覚が、歴史を扱うドラマとしての品性に欠ける。

まあ、とりあえず、今回について書いていこう。

まずは、明智光安の子・左馬之助(秀満)が登場する。

今後の光秀との関係が気になるところ。

次に注目すべきは、織田信秀の危篤について。

彼は、病床にあって、信勝に最前線の末森城を与え、一方で信長には後方の那古野城を今まで通り任せると宣言する。

後方の城では何もできない、と不満な信長。

母上の差し金に違いない。父上は母上の言いなりじゃ、と泣く信長。

最近の大河ドラマに登場する男はすぐに泣く。

本当によく泣く。

そして、決まって次に来るのは「よく出来た」嫁が夫をフォローする、という流れ。

この度もご多分に漏れず、帰蝶が信秀の本心を聞きに行く。

すると信秀は、「信長は、若い頃の自分によく似ている。だからかわいい。尾張を任せる。強くなれ」という台詞を言い残す。

それを帰蝶から聞いた信長は満足げな様子。

こんなシーンでも、なぜ、わざわざ、嫁の活躍シーンを出すために、ない話をでっち上げるのだろう。

「女がいないと立ち直れない泣き虫男と非常によく出来た嫁」の構図を信長と帰蝶でやるあたりがNHKの巧妙な、というより見えすいた罠のような気がする。

こういうちょっとしたシーンでも毎度の如く繰り返されれば、視聴者の脳裏に擦り込まれてゆく。

恐ろしい話だ。

だから、世間を見てみれば良い。

こういう擦り込みが繰り返されてきたばっかりに、「情けない男と図々しい女」ばかりになってきたじゃないか。

もちろん、大河ばかりではない。

チャンネルを変えて他のドラマでも如何にこんな構図が多いことか。

本当に嫌になる。

話が脱線したので続きを・・・と言いたいところだが、次の場面では、例の架空キャラクターが3人集結して駒と東庵が尾張や美濃に行くことに。

さて、次のシーンでは土岐頼芸から送られてきた鷹の爪に塗られた毒で危うく殺されかけた斎藤道三が描かれる。

いよいよ土岐家と斎藤家の間の亀裂が鮮明になってきた。

煕子が来て喜ぶ明智家をよそに、稲葉山城より突然の狼煙。

家臣を集めた道三は、皆の前で土岐様と敵対することを明らかにする。

一方で土岐家に内通する息子の斉藤義龍は光秀に、共に父上を倒そうと持ちかけてくる。

その頃、再び、駒が登場し尾張帰蝶と再会するどうでもいい話が挟まれ、東庵が双六をしに信秀の側に近寄ったところ、信秀はすでに亡くなっていた。

 

さて、いよいよ、次回は、おなじみのあのシーンやあの人物が登場。

邪魔するなよ、駒!

 

 

今週のお題「オンライン」

 

世間ではインターネットを何かと持ち上げるけど、結局、情報の渦に巻き込まれるだけ。

己自身の頭で考える人間が減った。

それこそ、戦国時代のような世界では、真っ先に殺されるでしょう。

信長は情報戦において今川家より優位に立っていたから、桶狭間で勝利できた、と言いますが、それは、情報を選び抜く優れた眼を持っていたからに他なりません。そして、何より、死を覚悟で突撃したからです。決して、情報に溺れて遊んでいたわけではありません。

 

すれ違いざま咳払い紳士に問う、ウイルス感染防止と言うけれど、本当にやる気があるのか?

 世界中に蔓延するコロナウイルス

マスクも手に入らない今となっては、もはや、自分一人では防ぎきれない。

そう、己の生死を、隣にいるAさんBさんに委ねなければならない時代がやってきたのだ。

さて、このAさんBさんの感染に対する意識が高ければ問題ないが、残念ながら、自分さえ助かればよいと考えている人間が多い昨今、それは高望みといえよう。

ネクタイを締め一見、紳士面している御仁も、人とすれ違いざまに咳払いをするようでは感染防止に対する意識が低いと言わざるを得ない。

なぜ、すれ違う少し前や後ではなく、よりによって私とすれ違う時を見計らって、咳をするのだろうか?

わざとしているのだろうか?

私に恨みでもあるのだろうか?

もちろんそんな程度で感染はしないだろう。

そんなことは分かっている。

しかし、今、これ以上感染を広げないようにしようと、世界中で、様々な努力をしている真っ最中だろう。

そんな時に、なぜ、それに逆行するようなことをするのだ。

コロナウイルスは、普通のインフルエンザウイルスと違い、空気中に約一時間ほど滞留するといわれている。

もちろん、外と密室では事情が違うだろうが、それにしても、人前での咳はできる限り控えるべきであろう。

飛沫観戦のリスクを考えれば、わざわざ、ピンポイントで人とすれ違いざまに、咳をするのはどうかしている。

ほんの2、3秒がなぜ我慢できない?ただそれだけ、ずらして咳をすれば、済むだけなのに、それができない。

そういう行為だろう、感染が広がるのは。

自分はよもやウイルス保有者ではないから大丈夫だとでも思っているか、万が一、保有者であったとしても、死なばもろとも、他人も巻き込め、などと考えているのだろうか。

全くもって迷惑な話である。

私やあなたが、一生懸命に感染防止の努力をしても、結局、隣にいる、AさんBさんの身勝手な行為で、台無しになる。

ライブハウスしかり、海外旅行しかり、わざわざなぜこんな時に行くのだろう、と腹が立つ。

 

 

今日すれ違った、咳払い紳士は、どうせくだらない仕事のために会社へ行って、さんざんウイルスをまき散らすのだろうか。

そう思うとゾッとする。

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『麒麟がくる』第十一話感想 果たしてNHKに麒麟はくるか

 今回は、『将軍の涙』。織田家と今川家の戦が始まり、次々と落とされる織田の城。

明らかに織田家の劣勢。

織田方は、ここぞとばかりに斎藤家との同盟に基づき援軍を要請。

しかし、道三はこれを拒否。

このことを伝えに、光秀を使者として尾張に遣わす。

光秀にとってはこのドラマ、四度目の尾張行きである。

どうあっても、光秀を表舞台に引きずり出したいNHKの苦心が窺える。

織田家において、信長の守役を務める平手政秀は斎藤家からの援軍を当然のことと思っていたので、光秀からの知らせを聞き、光秀や帰蝶を黙って睨みつけ去って行く。

信長は、和議しかない、と主張。

そこで光秀は、将軍家に仲裁してもらうことを提案。

道三にお願いするが、金がかかると拒まれたため、斎藤義龍の取りなしで美濃の守護・土岐頼芸に会い、将軍への手紙を書いてもらい、金も出してもらう。

その手紙を携え、久しぶりに京へ行こうとする光秀。

ところが、京は戦で乱れ、将軍は、近江の朽木に逃れていた。

道中再会した盟友・細川藤孝と共に、将軍に会いに行く。

ようやく、将軍により、仲裁の使者が遣わされる運びとなった。

国と国との争いを収めるのに、こんなにも遠回りしなければならない当時の有様をよく表現していた。

今回は、当時の紛争解決方法及びそのための手続きが一つの大きなテーマであった。

同時に、将軍・足利義輝が父から教わったという麒麟について触れていたことが印象深い。

病弱だった父から期待されて将軍になったのに、もはや将軍には何の力もないことを嘆く義輝。

「世を平らかに出来ない」将軍の無力さ。

しかし、一方で、その将軍の権威に期待を寄せる光秀のような人間が美濃にいることを心から喜んでいた。

だが、自分にはこの国を麒麟がくる国にできない、どこかでそう思っているようだった。

私は今日、改めて、駒に存在意義はないものと確信した。

そもそも、タイトルになっている「麒麟がくる」という言葉をあんなわけも分からない架空キャラに言わせるのではなく、最初から、義輝に言わせておけばよかったのだ。

そうすれば、ドラマ全体が重厚になり、もっと引き締まったものになっていた。

将軍でも呼べない、麒麟

では誰に呼べるか。信長か、秀吉か。

結局、天下を統一した家康の頭上には麒麟がきたと言えるのか。

そもそも、麒麟とは何の象徴なのだろう。

現在の日本は、平和の象徴は鳩と言われるが、これと同じに解してもよいのだろうか。

それとも別の解釈が・・・?

そこまで哲学的な描き方ができれば、「麒麟がくる」のタイトルにも箔が付くのだが。

駒の登場でいかにも幼稚な安物ドラマで終わる可能性もある。

今後に注目したい。

 

 

今週のお題は仕事。

今回は戦国時代の仲裁までの道のりがいかにめんどうなものであったかがよく分かった。

使者の仕事も辛いですね。

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英語教育がいかに無意味か

 大事なのは英語ではない。話す内容だ。

話す内容がお粗末だと、結局、表現手段に過ぎない英語も幼稚なものになってしまう。

だから、英語でも何語でも語学をやる前に、頭を使って、考える習慣を持て、と言いたい。

そもそも語学など、それを母国語としている人間にしてみれば、物心がついた時からしゃべっているもので、何も珍しいものでも、ありがたいものでもない。

日本人は日本語もまともにしゃべれないのに(昨今あふれる、グダグダの日本語を想起してほしい)、やたらと英語をしゃべりたがる。

そして、ペラペラ英語をしゃべっている者をすごい、すごいと誉めそやす。

戦後、アメリカによってもたらされた英語教育が日本の津々浦々に染み渡った結果であろう。

また、やたらと留学、留学というが、日本の古き良き文化や歴史をないがしろにし、身も心もアメリカに委ねるのなら、一層のこと留学といわず、国籍を取得して、一生海外に住めばよい。

他国に住んでみて、初めて、その国の厳しさが理解できるであろう。

ほんの一時、海外旅行したり、留学したぐらいで人間がどう変わるのであろうか。

今回は、この日本において、英語教育がいかに無意味なものかについて考えてみたい。

 

 

目立つものは叩かれる田舎臭い風習

 

 英語で会話するためには、文法や単語ももちろん重要だが、発音や喋り方まで意識しなければならない。

前者は、他の科目と同様に机に向かって勉強すれば、なんとかなろうが、後者はそうはいかない。

少なくとも、学校では、当然ながら、一人ずつ立たせて皆の前で、英語を発音させられることになる。

さて、ここで、大問題が発生する。

英語の発音は日本語のそれと比べても奇怪な音が多い。

例えば、Rは巻き舌、Lは舌を上の歯の裏側に付ける、Vは上の歯で下唇を軽く噛む、Pは日本語よりも破裂音であることを意識する、などである。

こういった音を皆の前で堂々と発音せねばならない。

国語の時間に朗読をさせるのとはわけが違う。

小学生の段階では楽しく笑顔で発音の勉強(お遊び)をするのだろうが、中学生以降の多感な年齢になるとそれでは終わらない。

下手な発音は嘲笑を買うし、よしんばうまく発音できたとして、先にも述べた通り、日本語とは明らかに違う異質な音を発する少年少女を周囲が受け入れるかの問題がある。

もちろん、それがきっかけで、人気者になる子供もいるだろうが、残念ながら日本では、出る杭は打たれるの例は何も大人だけのものではない。

子供の世界とて同じなのである。

語学というものは、他の科目と違って、一種のパフォーマンスなのである。

言葉は学問というよりも相手とのコミュニケーションツールであり、であればこそパフォーマンスとは一体不可分なのだ。

だから、大袈裟に喋れば喋るほど評価も高くなるという性質を持つ。

英語では、発音の他に、アクセントやイントネーションにも気を配り、パフォーマンスの精度を上げていかねばならない。

全ては相手とのコミュニケーションをより深くするためである。

だから、他の生徒の前でいわば、寸劇を披露するに等しいのである。

劇が好きな子供はまあよいが、ほとんどの生徒は、そうではない。

それは、恥をかきたくない、という思考経路を必ず通過するからである。

そう、つまり、下手をするとピエロになりかねないのである。

そうならないためには、教師に当てられても、苦笑いをして、真面目に発音しないに越したことはない、と考えるだろう。

言いたいことを主張してきた欧米人の性格と、出る杭は打たれる日本人の性格の差である。

こういった性格は長い歴史的経緯に由来するものであり、この呪縛から逃れるには相当な覚悟が必要だろう。

いかに小学生から学ぼうが、英語が上達しない理由がここにある。

 

 

言語体系が日本語とまったく違う

 

 

 常識的に考えてもらいたい。

フランス人やイタリア人、ドイツ人が英語を習得するのと日本人が英語を習得するのは果たして同じといえるだろうか。

前者の方が幾分有利なのは明白である。

それは前者の方が基本的に英語と同じ言語体系を有する言葉を普段から喋っているからである。

私は大学時代、第二外国語としてフランス語を学んでいたが、はっきり言って、フランス語の方が発音も文法も複雑である。

名詞一つとっても、男性名詞、女性名詞に分かれているし、一つの動詞が主語に応じて英語以上に変化する。

過去形もご丁寧に複合過去、大過去、半過去、単純過去、前過去と5種類もあったりする。

発音でも鼻に抜ける鼻母音があったり、最も悩ましいフランス語独特の"r"の発音は有名である。

もちろん、フランス語と英語は違う言語であるから、フランス人も英語の学習に戸惑いはあろう。しかし、英語の壁を乗り越えるのは日本語を喋っている日本人より早いであろうことは容易に想像がつく。

つまりは日本人が英語を学ぶには、フランス人の何倍も努力しなければならない。

小学校からお遊び程度に英語の勉強を始めたところで、乗り越えられるような壁ではない。

 

 

 英語よりも大切なもの

 

 だいたい日本人は海外留学や海外旅行など海外という名のついたものをやたらとありがたがる傾向にある。

「海外旅行したら世の中の見方が180度変わる。人生にとって得難い経験ができる。」などとハワイへ旅行しただけの人間が、真顔で言ってくる。

適当に相槌を打って返すが、内心は、「一体こいつは何を学んできたんだ。」といつも疑問に思う。

学んできた中身を見せてもらったことなど一度もない。

「お前程度の能力で得られるものなどたかが知れている。隣町で一泊して得られる内容と大して変わりはない。」と心の中で言い返している。

新聞紙などでよく募集している投稿論文やこのはてなブログでも海外での体験談はなぜか大きく紹介される傾向にある。

いくら読んでも何がそんなに素晴らしいのか理解できない。

海外という印籠を振りかざせば、皆がひれ伏すとでも思っているのだろうか。

重要なのは、海外へ行くことでも、英語をしゃべることでもない。ましてや、「あの国ではああだった、こうだった」と自慢げに語ることでもない。

本当に、世間の見方を180度変えたければ、思考することである。

海外へ行ったからといって周囲は何もしてくれない。

もちろん現地へ行けば、テレビや本で接するよりも臨場感はあるかもしれない。

しかし、結局、学ぶのは己自身である。

その国へ行って、言語だけでなく、歴史や文化や地理など多面的な観点から、人や、物に接する。

「なぜこの国の人はこういう考え方をするのだろう。この遺跡はどうしてこんな場所にあるのだろう。」などといろいろ考えてみる。

そして、その国の道徳律や倫理観の奥底に触れ、国民ごとその国を理解する。

その上で、日本人の一般的な思考方法と比較して、どこがどう違うかを暴き出してみる。

もっとも、こんなことは、過去の文献を読めば、すでに暴かれている。

今さら、わざわざ海外に行っても新しく世の中の見方が180度変わるほどの発見などそうはない。

だから僅かばかり日本から出ただけで、出ていない者との間に大きな差をつけたかのような上から目線の人間にはうんざりする。

思考する習慣のない人間が、下手くそな英語を振りかざして、海外へ行っても得られるものなどありはしない。

 

 

 

冒頭にも書いたが、現在、訳の分からない日本語がはびこっている。

日本人の言語に対する接し方の表れである。

そんな人間が、英語を勉強するなどちゃんちゃらおかしい。

今、学ぶべきは、英語ではなく、日本語であろう。

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『麒麟がくる』第十話感想 果たしてNHKに麒麟はくるか

竹千代、可愛いとか言っている連中

 

 「ひとりぼっちの若君」

今回の見どころは、信長と竹千代の若き日の姿、といったところか。

いったい、天下人とはどのように描かれるべきか。

群雄割拠の時代には様々な武将がいる。

その中でも、天下人というのは、ただ一人の勝者である。

それも、なろうとしてなれるものではない。

知略、魅力は言うに及ばず、清濁併せ呑む器量、さらには運まで味方につけたとしても、なれない。

過去の名作大河ドラマ独眼竜政宗』では、政宗をして「詰まるところ、人が天下を選ぶのではない。天下が人を選ぶのだ」と言わしめた。

そんな天下人に、かの徳川家康はなったわけである。

そういえば以前、BBCで、『歴史を動かした男たち』の中に、ナポレオンやスパルタクスアッティラ大王などと並んで徳川家康を取り上げていた。

イギリスでも注目されるほどの男。

もちろん、勝者の論理はあるだろうから、歴史資料にも、徳川家にとって、都合の悪いことは意図して削除され、反対に、徳川家関連の業績や人物の評価は、大幅に誇張されるきらいもあるので、真に受けるわけにはいかないが、とにもかくにも、徳川家康その人に関しては、「なりたくてもなれない天下人」になったのであるから、何か他の人物と違っていたのだろう。

だから、当然に、竹千代は『神童』だったとの書き振りがあっても不思議ではない。

 

「敵を討つには敵を知れ、と申しまする。」

 

果たして年端のいかぬ少年、竹千代がどこまで『神童』だったかは知る由もない。

 

だが、信長と竹千代が将棋盤を挟んでする会話としては、緊張感が出ていたように思われる。

およそ武家の子ともなれば、お家のために死ぬ覚悟はできている。

今更、人質になることを恐れはしない。

それが今の甘やかされて育てられた子供とは違う点である。

今回のシーン、演じた子役が可愛い、などといった下世話な評価に落とし込むのは、見どころを誤ったものと言える。

子供を可愛がるしか能のない、現代の日本人の親には絶対に育てられぬ『神童』の姿を描いたのである。

 

また、信長も天下こそ取り損ねたが、事実上、手中に収めたといえる。

彼もまた、他の武将とは違っていた。

ただし、こちらは、『神童』ではなく、『うつけ』であった。

 

今回、弟に愛情を注ぐ母への言及はお馴染みと言って良いストーリー展開だが、 話し方や間の取り方や表情から、「こいつは、いつか何かをやらかすんじゃないか。」と思わせる、どこかピリピリとした空気感が伝わっていたようにも思う。

また、今回は、鉄砲に関する光秀とのやりとりもあり、やはり両者の出会いシーンには、緊張感が漂う。

光秀に限らず、今後の信長の人に接する態度にも注目が集まるだろう。

 

 

今回のこれらのやりとりは光秀による通算三度目の尾張潜入の中でのものであった。

強引にもNHKは、光秀に三回も尾張に潜入させて、主要人物と出会わせている。

若き日に関する資料のない光秀を歴史に関わらせる荒技と言って良いが、主要人物紹介の趣旨なのでそれはそれで良い。

が、一方で、今回は、貴重な前半の15分を駒に当てていたのはいただけない。

前回ブログでも予想した通り、架空キャラクターのオンパレードであった。

せっかくの後半の内容もこれでは、途中でチャンネルを替えたくなる。

毎度言うことだが、『駒がくる』ではないのだ。

今回は、NHKに以下の一句を付け加えて言っておこう。

 

 

前半の

15分は

命取り

 

 

 

お題が英語ということなので、アルファベットでも並べておく。

 

光秀、信長、竹千代、とくれば、後は、もう一人の天下人、『H・i・d・e・y・o・s・h・i 』に期待。

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「働かない」時代の到来~「働きたい」けど「働けない」

「働きたい」という嘘

 

 「働きたい」などとテレビのインタビューでよく言っているが、心の底からそう思っているのか。

もちろん自分の好きなことを生業としている人はそれでよいが、大半の人間は働くこと自体は嫌なはずだ。

なのに「働きたい」と叫ぶのはなぜか。

「働きたい」ではなく「働かなければならない」からである。

なぜ「働かなければならない」のか。

賃金を得るためである。

金がなくては生活ができない。

働かざる者食うべからず、なのである。

眠い目をこすって朝早くから会社に行き、およそ知的活動とはほど遠い作業をさせられ、同僚や上司などとの人間関係に揉まれ、飲み会と称する馬鹿げた酒盛り会に参加を余儀なくさせられる。

こんなことを毎日、70歳(最近、70歳定年制が叫ばれている)までしなくてはならない。

右を見ても左を見てもこんな人間ばかりである。

右にいる会社員が左にいる会社員に向かって働くことの素晴らしさを説く。

すると、今度は左にいる会社員が右にいる会社員に向かって同じことを説く。

お互いに傷を舐め合うことで働くこと自体を崇高なものに仕立て上げていく。

自分は崇高なことを毎日行っていることを確認した会社員は、今日も上司に頭を下げる。

 

そう、資本主義社会では「働きたい」と叫べばそれは善人の証となるのだ。

反対に「働きたくない」などと言おうものなら、即、怠け者のレッテルを貼られる。

善人に見られたいからこそインタビューでそう叫ぶのだ。

つまりは偽善者なのである。

金がいるという露骨な本音を覆い隠すために、「働きたい」という『崇高なる』表現のオブラートで包んでいるに過ぎない。

もし、働いても賃金が得られなければ誰も働かないであろう。

賃金と労働の関係をスッパリ切断してもなお働く者がどこにいるだろうか。

それでも進んで働く者がいるとすれば、彼のみが「働きたい」という言葉を使うことが許されるのだ。

 

『働けない』現実

 

 しかし、いかに「働きたい」と叫んだところで、職がない。

もちろん現状、探せば色々な職があるだろう。

だが私は、近い将来、本当に、働くということ自体がなくなるような気がしてならない。

以前、テレビである企業が、大量のリストラを敢行し、代わりに一台の機械を購入した。

社長曰く、「機械は文句を言わないし、疲れないからミスもない。1日の生産量も大幅にアップする。初期投資は高いが、効率を考えれば従業員をカットしても割に合う。」

私はこの発言を聞いてゾッとした。

もうここまで来ているのだ。

以前から分かってはいたけれども、なかなか口に出して言う人はいなかった。

我々は、自らの生活を豊かにするために、技術の進歩を望んだ。

しかし、皮肉にも、その技術の進歩が、我々の職を奪っているのである。

このまま技術が進歩し続ければ、やがては人間がしている仕事の大部分を機械が代行することもあながち不可能とは言い切れない。

今ですら、皆さんがされている仕事が本当に人間しか出来ないものなのか、よく考えて欲しい。

 

 

最後に、タバコの吸殻を平気で道端に捨てている人に注意をした時、返ってきた言葉を記しておく。

「こうやって、吸殻を集める職をつくってやっているんだ。」

 

 

今週のお題「ホワイトデー」

 

ホワイトカラーなどと言っていられるのも今のうち