1000pv達成記念 私がブログを書く理由は「オフホワイト」発言なしに社会を斬りたいから

 

何か『おかしい』社会

 

 いつもいつも、多くの方に、私の拙い文章を読んで頂き、本当にありがとうございます。

何事にも、歯に衣着せぬ意見を書くことをモットーとしております。

私ならずとも、おそらくは皆さん、何事につけ、心のどこかで何かしらやりきれぬ部分やわだかまりがあるのではないでしょうか。

別に政治的な何かを煽動する意図は毛頭ありませんが、この社会ははっきりいって何か『おかしい』。

もっと言えば、社会を形成しているのは構成員たる人間なのだから、結局は人間が『おかしい』ということになります。

では、どう『おかしい』のでしょう。

私は、日々、そんなことを考えております。

 

『ぶった斬られた』社会

 

 以前はよくテレビの討論番組などで、ご年配の論客の方々が厳しい言葉で、様々な話題を『ぶった斬って』おられましたが、今や、残念ながらそのような方々のほとんどが、お亡くなりになり、テレビも随分静かになりました。

中堅の、あるいは若い論客の方々は、何か、細かいデータを振りかざしてみたり、冷静で無難な態度はかえって他人事のように聞こえ、どこか説得力に欠けると、勝手ながらそう思います。

どこかに、多少なりとも、人間や社会に対して厳しい言葉を浴びせかける論客がいてもよさそうなものですが、どうも、昨今の様々な意見を聞いていても、どれも皆、生温く甘ったるい見解ばかりです。

なかなか胸に刺さるものがありません。

ではどんな意見が刺さるのでしょう。

 

『哲学』と社会

 

 かつて、社会を『ぶった斬って』おられたご年配の論客の方々は、立場の違いはあれ、何かしらの『哲学』に立脚しておられました。

今日では、この『哲学』があまりにも軽視されているのではないでしょうか。

私のような若輩者にはまだまだ自分流の『哲学』など形づくる術を持ちませんが、『哲学』の基礎にあるのは『思考』ではなかろうかと思っております。

だからこそ、私は日々、考えるようにしています。

 

ドラマと『哲学』

 

 ここ最近は、勝手ながら、大河ドラマ・『麒麟がくる』を題材に、『果たしてNHK麒麟はくるか』というテーマのもと、勝手気ままにブログを書き殴っておりますが、このドラマは、意図して『女子』を戦国の世に投げ入れ、現代の色恋沙汰をそのまま500年前の世界で再現しているのです。

もし、男性に振られた時の女性の複雑な心情が知りたければ、何も、歴史ドラマで描く必要はなく、それこそ、民放でやっている夜のドラマにお任せすればよいのです。

少なくとも私は、自分と同じ血肉の通った人間が、それも同じ日本人が、様々な困難にいかにして立ち向かったか、その知恵や勇気を歴史ドラマから得たいと思っています。

先人はその身をもって、世の中を生き抜く術を提示してくれているのです。

それはまさに、『哲学』といってもよいかもしれません。

彼らの『哲学』を少しでも学び取りたいのです。

恋愛事情に『哲学』がないとは言いませんが、少なくとも、大河ドラマでやる必要はないのではないでしょうか。

せっかく過去の偉人にクローズアップしているのに、その偉人たちの業績はさて置いて、現代ドラマでいつでもみられるような恋愛事情を事細かに描くのは全くもって的外れの一言に尽きるように思います。

 ところで、先日から、同じNHKで『レ・ミゼラブル』が始まりました。

この物語の作者は、かのヴィクトル・ユゴーですが、彼がこの作品で言わんとしたのは『不平等社会への怒り』であったようで、まさに彼が生きた当時の社会を反映した作品でした。

時代は下って、彼の死後100年たって、なんと、ユゴーの母国・フランスではなくロンドンでこのミュージカル版が大ヒットしたそうです。

なぜでしょう。

当時のイギリスはサッチャー政権下にあり、貧富の差がこれまでになく大きく開いたからです。

今回、NHKやるドラマ版は2018年のBBC制作によるものですが、まさに、昨今の広がり続ける格差社会を象徴するものと言えます。

時代や場所に関係なく、普遍的に愛される作品には何か尊いものを感じます。

どうして、時代や場所を超えて愛され続けるのかと言えば、それはとりも直さず、ユゴー自身の『哲学』が、しっかりと作品の中に埋め込まれているからなのです。

最近の大河ドラマなどのように、一時のウケ狙いで作られた作品とのレベルの違いを見てとれます。

 

 『哲学』なき人々

 

 どうしてこんなことになるのでしょう。

それは確かに作り手の落ち度であるとも言えますが、それだけではありません。

受け手である我々にも問題があるのです。

そう、我々一人一人が、『哲学』を持たず、ただただ漫然と日々を暮らしているからなのです。

しっかりとしたものの見方や考え方を持たない、己の快楽のみを求め続けた結果なのです。

『哲学』することは決して楽なことではありません。

でもできればこのブログで、皆さんとともに、少しでも『哲学』できれば幸いです。

これからもよろしくお願いいたします。

 

 

今週のお題「ホワイトデー」

 

このブログでは、「オフ・ホワイト」発言は致しません。

 

『麒麟がくる』第九話感想 果たしてNHKに麒麟はくるか

 主人公を出さずにいかに魅せるドラマを作るか。これこそ脚本家の腕の見せどころであろう。下手をすると批判の雨あられとなってしまう。視聴者はその主人公の活躍を見たいからに他ならない。さて、今回は、おそらく麒麟がくる始まって以来の主人公・光秀がほとんど出ない回となった。主に三つに分けてみた。

 

1、織田信長関連の話

 今回の目玉はなんといっても信長。前回の終わり方が、今川義元の「戦じゃ!」で終わっていたが、おそらくそうはならないだろうと思っていた。

これまでのNHKのやり口として次回への「釣り」であることが多いからである。

あのような鼻息混じりの終わり方をすれば、次回も見るだろうという意味での「釣り」である。

釣られてみると肩透かしを食らわせられるのは分かっていた。

このブログでも、また批判しなければならない、と直前まで思っていた。

しかし、駒エピソードは影を潜め、信長エピソードで前半は占められていた。

信長と信秀の関係を物語るような話。

めでたい席上で父に対し松平広忠の首を手土産に差し出すという、信長の異様さを物語るエピソード。

「若い頃からやっぱり信長は…」という、「さもありなん」ストーリーといえよう。

また帰蝶や竹千代、土田御前、とのやりとりもあり結構長い時間を織田家に費やしていた。

それぞれの関係性を紹介する意図があったものと思われる。

タイトルも『麒麟がくる』なのであるから、別に光秀一人を延々と追っかけなくても問題無いと私は考えている。

群像劇を描くのであればそうした方が良い。

ましてや、光秀の前半生は謎に包まれた部分が多く、無理矢理、妙な話を作り上げて光秀と絡ませるのであれば、いっそのこと光秀から離れて別の有名なエピソードを盛り込めば良い。

その方が、全体としてスケールが大きくなろう。

だから今回の信長エピソードには不満はない。

 

 

2、光秀と煕子の出会い

 さて、ここからがしんどい流れとなる。

しかし、光秀の正室・煕子は描かねばならない。

わざわざ、隠れんぼだの、鬼だの、こんな演出は必要か?とも思ったが、まあ、ダラダラし過ぎていなかったので、『おんな城主・直虎』のことを思えば、まだマシか。

しかし、煕子との出会いの場面が避けて通れないのが分かっているなら、今までの駒に関する話はなお一層不要である。

女性の立場から見た光秀の姿は妻である煕子一人に限っておくべきだった。

ということで、次の話題へ。

 

 

3、またしても駒

 番組終了ギリギリになってまたぞろ出て参りました、おなじみタイムトラベラー・駒。

失恋から立ち直れない駒が針治療で失敗する、全くどうでもいい話。

今回は駒の出番が少なかったのが救いか。

しかし、予告では、駒が泣いていたようだし、伊呂波大夫も登場するようだし、架空キャラクターのオンパレード。

これは一体、なんのドラマだ!

 

 

今週のお題「ホワイトデー」

 

おモテになられる『蜜秀』様はホワイトデーも忙しそうですなあ!

日本人よ!いい加減、『子供』を卒業せよ‼️

 

今週のお題「卒業」

 

自己中ウイルス

 

 先日、政府は、コロナウイルス対策として事実上、韓国、中国からの入国を拒否する措置を講じた。

その対象が、中国や韓国に旅行中の日本人にも及ぶとあって、一部に不満の声もあるようだ。

これについて、Yahooニュースのコメントを見ると、おおむね、入国拒否に賛成の意見が多く、上記日本人旅行客が抱える不満については、「こんな時期に韓国へ旅行する方がおかしい」とか、「権利ばかり主張するのではなく責任や義務についても考えろ」とか、「自分が日本に帰国することで、感染が拡大するかもしれないことを考えたことはないのか」などといった意見が数多く見られた。

全くもって、その通りであり、私ごときが口をはさむことは何もない、と言いたいところだが、あえて付け加えるなら、

「悲しいかな、それが、現在の日本人に他ならない」

ということである。

つまり、常識が働かない。

旅行したいと思えば、時期を選ばず旅行する。

『我慢』などという言葉は、彼らの辞書にはない。

「この世に生を受けた限り、犯罪に触れなければ、何をやっても許される。旅行もその一つだ。自分以外の人間がどうなろうが、こちらの知ったことではない。」こういう考えが、多くの日本人に蔓延している。

はっきりいって、コロナウイルスよりもたちが悪い。

コロナウイルスは時とともに終息し、子孫に受け継がれることはないが、自己中心的な考え方というものは決して一代限りで終わるものではない。

ほぼ確実に、子孫へと受け継がれる。

子は親の背中を見て育つからである。

 

歩きスマホ

 

 今や多くの人間がスマホに夢中になっている。

ここで、歩きスマホの例を見てみよう。

とある道で、あなたの目に前に歩きスマホ人間が向かってくる。

このまま行けば両者は確実に衝突する。

だが、向こうは気づかない。

ぶつかりそうになった時、果たして避けるのはどちらか。

厄介ごとを避けたいと思うほとんどの人間は、歩きスマホ人間に道を譲る決断をしてしまう。

歩きスマホ人間は、特に何をするでもなく、まんまと自分の歩行経路を確保したわけである。

彼は、誰はばかることなく堂々と己が道を闊歩して見せる。

これが繰り返されると、彼の頭の中では、『歩きスマホには道を譲らなければならない』というなんとも都合のよい規範がいとも簡単に作られていく。

一部始終をそばにいた彼の子供が見ていたとする。

幼い子供は『反面教師』などという難しい言葉を知らない。

批判能力のない子供にとって、親は、言うなれば『全面』教師なのだ。

相手方が文句も言わず道を譲っている以上、もはや歩きスマホは、子供にとっては『善行』として受け止められるようになる。

この親にしてこの子あり、とはまさにこのことだ。

彼ら親子には、倫理や道徳という言葉は一切通じない。

自分のことしか頭にない、他人は自己にひれ伏す存在としか見ていない自己中人間の典型例であり、それが、親から子へと受け継がれた瞬間である。

 

食事のマナー

 

  さらに例を挙げてみよう。

よく、人前であるにもかかわらず、食べるときにクチャクチャと口を開けて噛む人間がいる。

そういう人間ほど、食事時間がしつこいほど長い。

明らかに、身近にいる人間に嫌悪感を与えている。

にもかかわらず、当の本人は、マナー違反の認識がない。

むしろ、美味しさを噛み締めて、満足している様子である。

彼の親がどうだったかは知らない。

しかし、にわかについた習慣とも考えられず、おそらくは、成長期の何処かの段階で親が指摘できたはずなのである。

人は食べること無しには生きていけない。

『人』と『食』は生涯にわたって切っても切れぬ関係にある。

また、好むと好まざるとにかかわらず、人は社会の中で生きている。

決して、自分だけが生きることを許された特別な人間ではない。

つまりは、社会の中での食事のあり方が問われるのである。

クチャクチャするのは、社会的に承認された食べ方とは言えない。

大部分の人間は、これを不快に感じるのである。

そうであるなら、できるだけ、不愉快な音や下品な食べ方などを慎み、快適な食事の環境を維持すべき必要に迫られるのも当然の成り行きだろう。

いかに自分にとって快適だとしても、人が共存していることを考えれば、控えねばならない。

ところが、我慢や遠慮を知らない自己中人間は、人前であろうがどこであろうが、平気で我流を通す。

 

偽善者たち

 

  思い付きで卑近な例を挙げてきたが、こんな例は、枚挙にいとまがない。

通事故やあおり運転の被害が後を絶たないのも、運転者が自己中人間と考えればうなずける。

自分だけ助かろうとマスク欲しさに狂ったように並ぶのも同じである。

公共の精神が姿を消し、悪しき『自由』が蔓延しているのだ。

自分さえよければ、他人はどうなってもよいのか?

「自分以外の人間が、クルマで死のうが、コロナで死のうが、どうでもよい。

自分が、自らのやり方でスマホや食事を楽しめればそれでよい。」

こんな風に口に出して開き直っている人間はさすがに少ない。

実際は、亡くなった方々に対して、一応、かたちだけ悲しんでみせる人間が大半である。

私はこんな人間に対しても怒りが込み上げる。

「だったら、運転するなよ。マスク欲しさに列をつくるなよ。この偽善者め!」

 

 

 

『麒麟がくる』第八話感想 果たしてNHKに麒麟はくるか その2

期待感をくじく演出

 

 第七回でザ・戦国の一人である信長を探しに行き、ようやく出会える寸前で時間いっぱいになった。

あのような終わり方をされれば、信長に対する期待値はいやがうえにも膨らむ。

結局、今回の第八回、その期待に応えることができたのか。漁から帰ってきた信長が魚を庶民に売る・・・だけ。

もちろん、話の流れとして、帰蝶の密命を帯びて、変装してまで熱田に潜入し、信長探索に行ったことになっているので、光秀と信長が深く関わることはできないにしても、あまりにもお粗末というほかない。

あのような、魚を売る姿を一瞥(べつ)しただけで、信長の「人となり」など分かろうはずもない。

もっと、いかにも信長らしいエピソードを盛り込むべきであったと思う。

もちろん、私とて、織田家の嫡男という身分の高い人間に易々と会えないことぐらいは承知している。

ましてや、変装した光秀が、親しく声をかけるなどできないことはいうまでもない。

実際に二人が出会うのはずっと先のことになるのだから。

しかし、それを言い出せば、そもそも、帰蝶が、これから自分の婿となるであろう信長という男を見てきてくれぬか、などと光秀に命じることもあり得ないことだ。

さらに遡って、武家の娘が己の輿入れを拒絶することも当時としては考えられない。

ところが、それでは話が膨らまないものだから、NHKが何とかして考え出したのが、上記ストーリーであった。

私個人としては、こんなストーリーは愚にもつかない出来栄えだとは思うが、とはいえ兎にも角にも、前回の放送終了直前までで、何とか信長登場にこぎつけたのであるから、NHKとしては、そのまま膨らんだ期待を裏切ってはならなかった。

結果は、先にも述べたとおりである。

 

 

女で盛り付けられたストーリーと「釣り」の罪

 

 歴史をドラマにするということは、やむを得ず、嘘をつかねばならないこともある。

真実の歴史など後世の人間は知る由もないからである。

かろうじて、書物などの資料にすがるほかない。

しかし、資料に書かれたことをそのままドラマ化するとなると、ドキュメンタリー番組のようになり、無味乾燥であまり面白くないこともある。

また、あまりにも、短くなりすぎて、大河のような長編ドラマにはできなくなる。

そこで、例えば、有名な吉川英治の『太閤記』のように、巧妙にストーリーをでっち上げて、さもそれらしく見せる技術が必要となる。

あえて言うなら、「嘘の盛り付け」を施さねばならぬのである。

盛り上げるべきところは一気に盛り上げる。

膨らんだ期待に肩透かしを食らわせるなど言語道断である。

今回など、魚を売る信長をわずか見せただけで、光秀はすぐに美濃に帰り、うじうじと思い悩んでは母親に励まされ、三角関係の頂点の一角にあっては女にチヤホヤされ、要は女性に慰められて生きる男の姿を描いていた。

そういえば帰蝶も子供時代の光秀の泣き虫話をしきりに持ち出していた。

光秀とて女なしでは生きられない一人の男だったと印象付けたい思惑が垣間見える。

ついでに、父・道三との確執が色濃くなる息子・義龍も結局、母親に甘えていた。

戦国時代の男も現代の男もみんな、およそ男は女なしには生きられない子供と同じだ、とでも言いたいのであろうか。

太閤記』には遠く及ばない、全くもって下手くそな「盛り付け方」である。

いや、下手くそだけでは済まない。期待を膨らませた前回の終わり方から見て、NHKはこともあろうに信長を使って、魚ではなく、視聴者を釣り上げようとしたのだ。

第八回で明確に期待を裏切っていることからすれば、これはまさに、詐欺的手法と言っても良いと思う。

ということは、今回の第八回の終わりで、今川義元が息巻いていたが、あれも間違いなく「釣り」だろう。

 

 

今週のお題「卒業」

 

NHKは「釣り」を卒業せよ。

 

 

 

corespi.hatenablog.com

 

 

 

 

『麒麟がくる』第八話感想 果たしてNHKに麒麟はくるか

 『光秀』から『蜜秀』への退化

 

  帰蝶が織田に輿入れし、いよいよ、今川が織田攻めのため、松平を呼ぶ。

この一行で済む今回の話。ところが、かのNHKは、前者の帰蝶の輿入れの話におおかた二話分を費やし、後者の話などわずかに二分で終わりである。

もちろん光秀の話だから今川の織田攻めは直接関係ないかもしれない。

しかし、この扱いは酷すぎる。

たかだか一姫君が嫁ぐだけの話に、女の揺れ動く気持ちなど織り交ぜながら、よくもダラダラとやってくれたものだ。

結局、描きたかったのは、帰蝶・駒・光秀の三角関係なのだから頭にくる。

駒がようやく京に帰るというから、どうせ、駒イベントが待っているのだろうな、と思っていたら案の定、駒づくしであった。

駒の唄、踊り、お手玉挙げ句の果てには、光秀のお見送り。

道中、駒が光秀に帰蝶に対する想いについて、質問する。タイムトラベラー・駒の本領発揮である。

ゆっくりと時間を使う。

誰が興味あるのか、こんな茶番劇。

今回は、一挙にB級・C級恋愛ドラマに成り下がった。

見ているこっちが恥ずかしくなるほど、安っぽい演技であった。

この程度の演技を褒めそやす世間の目というものが、いかに貧しいかが分かる。

この番組は、『大河』だろう。揺れ動く乙女心など描いているようでは、それは、所詮『小川』のせせらぎに過ぎない。

 

「ああ、分かった、分かった。入れとけばいいんでしょ。はい、今川義元、雪斎、松平、織田攻め。これで満足?」

こんな調子で、キーワードをちりばめ、番組終了近くになって、二分にまとめて見せる。

毎回、こんな調子である。

みなさん、これで満足ですか?

こんな扱い方されて、腹が立ちませんか?

 

 

今週のお題「卒業」

 

気になるか?

『蜜』秀様の

恋話

 

大河でダラダラ恋バナはおかしい。

恋バナを描くなら、別の民放ドラマでやってくれ。 

恋バナから卒業せよ。

 

コロナウイルスに全く対処できない『スパコン』の無能さ

世界の中心で『京』を叫ぶ

 

 皆さんは覚えておられるだろうか。

驚異的な演算速度を誇るスパコンの存在を。

アメリカはもちろん日本にも『京』の後継機である『富岳』などという御大層な名前を与えられたスパコンが存在する。

そして、かの中国も多くのスパコンを所有しており、ランキング上位に食い込んでいる。

どこの国のスパコンが一番早いかを競う毎日であるようだが、誰しもが「一体、何に使うの?」という疑問にぶつかるはずである。

スパコンの『京』が話題になったとき、私も真っ先にそう思った。

テレビや理化学研究所のホームページがそれに答えて言うには、資源探索、気象予想、防災、宇宙の謎の解明などなど、まことに結構な話である。

しかし、同時に列挙されていた例の中には、はっきりと薬の設計も挙がっている。

薬の設計・・・。

今現在、世界中に蔓延している、コロナウイルス

一向に治療薬が見つからない。

スパコンスパコンと派手に宣伝した割には、中国にしろ、日本にしろ、死者まで出ているのに、何の役にも立っていない。

いくら、高い演算速度を誇ってみたところで、突如出てきた、ウイルスにすら何の打つ手もない。

計算ができるだけでいいのなら、そろばんをしたり、公文式で勉強した方がよいのではないだろうか?

それとも、現在、自慢の演算能力で、計算中だろうか。

ずいぶん時間がかかるものだ。

 

今週のお題「うるう年」

 

今日の一句

 

ウイルスに

対処もできず

うるう年

 

 

 

 

 

『麒麟がくる』第七話感想 果たしてNHKに麒麟はくるか

帰蝶の願い』のあらすじ 

 今回は、帰蝶の輿入れの是非に光秀が苦悩する回であった。

織田家は、美濃の斎藤道三駿河今川義元との争いに加えて尾張の内紛問題も抱えていた。さすがにこれは厳しいということで、斎藤家との同盟を模索する織田信秀

道三はこれに応じ、娘・帰蝶織田家に輿入れさせることになる。

帰蝶自身は輿入れするのを嫌がっており、

光秀の叔父の光安から帰蝶様を説得せよと命ぜられた光秀。

また、道三は光秀に、尾張との縁組の重要性を「海から得られる富がいかに重要か」という点から説明する。

一方で、道三の子、義龍からは道三の独断専行許すまじ、としてこれに猛反対。

帰蝶様になんと言えば良いのだろう…。という心の声が聞こえてきそうな光秀。

そして、帰蝶に対面する光秀。

そこで、帰蝶の口から、いよいよ信秀の嫡男・信長の名前が出てくる。

続けて帰蝶はこう言った。

「見てきてくれぬか。その信長という男を。」

こうして、光秀は例によって変装し、熱田へと赴く。

信長に関する情報を探りに。

そこで、信長の姿を見かける光秀…。

 

 

帰蝶がくる』であってはならない

 

 帰蝶の輿入れの是非をテーマに乗せて、斎藤家の親子の確執、道三の海への憧れ、そして、信長との出会いを描いた今回。私としての見所はこんなところだった。

結局、信長と光秀を巡り合わせるために帰蝶の輿入れの是非を延々と描いていたに過ぎない。

長過ぎる…。テンポが悪い。その理由は、今回の一貫した流れが、帰蝶の輿入れの是非がテーマになっているからに他ならない。もっと言えば、戦国時代の輿入れはズバリ、女の悲劇を物語るのにうってつけの話題なのである。つまりは、今回はかわいそうな帰蝶物語だったのだ。そう、『帰蝶がくる』を見せられていたのである。

「周囲の男たちが一人の女性の結婚について、あれこれ意見する。肝心の女性の方は結婚したくないと言っているのに彼女の思惑など完全に無視。結局は、男たちの言いなりになる他なく、生贄として結婚させられるハメになるかわいそうな女性。これぞ悪しき男尊女卑の最たる例だ。」と、こんなことを描きたかったとも言える。やがて、「男たちの理不尽な要求」にもかかわらず、「粛々と嫁ぐ女性」の姿を描いて、女性を持ち上げ、女性視聴者を獲得したいとの下心があるような気がしてならない。そうでないというなら、なぜ、まるまる40分余りを費やして、輿入れ話を引っ張るのだろうか。

女性視聴者には不本意だろうが、戦国時代は現代とは違う厳しい時代だった。天下布武を唱えた信長に代表されるように、当時は、『武』がないとたちまち敗者に成り下がり、すべてを失うことになる。いずれの大名も皆、武力をもって這い上がろうとした。その武力を行使するのは男たちなのである。非力な女性に発言権などない。世に長い歴史をもつ国は、こうした経験を多かれ少なかれ必ずもっている。そう、つまり、女性は『戦の道具』に過ぎなかったのである。現代からするとおよそ受け入れ難い考え方だろうが、弱肉強食の時代には有効な考え方であった。

と、くどくど私に説明されなくとも、多くの視聴者はご存じだろう。

にもかかわらず、NHKは毎度の如く、輿入れにまつわる女性の悲劇をじっくりと描こうとする。

今回も例外ではなかった。

何か作為的なものを感じるのは私だけだろうか。

また今回は(今回も、というべきか)御丁寧に、女性である架空キャラ・駒が、光秀の母に、身分違いのかなわぬ恋を匂わせるシーンも挟んであった。光秀が来て、母の見ている目の前で、わざとらしく喜んで見せる駒の二流・三流の演出には、もはや、ため息しか出ない。加えて、恋愛に敏感な現代人が一人混じっている感覚にも襲われる。『タイムトラベラー・駒』と呼ばせていただきたい。

 

 

今週のお題「うるう年」

 

本日の一句

 

4年前

うるう大河は

真田丸