日本人よ!いい加減、『子供』を卒業せよ‼️

 

今週のお題「卒業」

 

自己中ウイルス

 

 先日、政府は、コロナウイルス対策として事実上、韓国、中国からの入国を拒否する措置を講じた。

その対象が、中国や韓国に旅行中の日本人にも及ぶとあって、一部に不満の声もあるようだ。

これについて、Yahooニュースのコメントを見ると、おおむね、入国拒否に賛成の意見が多く、上記日本人旅行客が抱える不満については、「こんな時期に韓国へ旅行する方がおかしい」とか、「権利ばかり主張するのではなく責任や義務についても考えろ」とか、「自分が日本に帰国することで、感染が拡大するかもしれないことを考えたことはないのか」などといった意見が数多く見られた。

全くもって、その通りであり、私ごときが口をはさむことは何もない、と言いたいところだが、あえて付け加えるなら、

「悲しいかな、それが、現在の日本人に他ならない」

ということである。

つまり、常識が働かない。

旅行したいと思えば、時期を選ばず旅行する。

『我慢』などという言葉は、彼らの辞書にはない。

「この世に生を受けた限り、犯罪に触れなければ、何をやっても許される。旅行もその一つだ。自分以外の人間がどうなろうが、こちらの知ったことではない。」こういう考えが、多くの日本人に蔓延している。

はっきりいって、コロナウイルスよりもたちが悪い。

コロナウイルスは時とともに終息し、子孫に受け継がれることはないが、自己中心的な考え方というものは決して一代限りで終わるものではない。

ほぼ確実に、子孫へと受け継がれる。

子は親の背中を見て育つからである。

 

歩きスマホ

 

 今や多くの人間がスマホに夢中になっている。

ここで、歩きスマホの例を見てみよう。

とある道で、あなたの目に前に歩きスマホ人間が向かってくる。

このまま行けば両者は確実に衝突する。

だが、向こうは気づかない。

ぶつかりそうになった時、果たして避けるのはどちらか。

厄介ごとを避けたいと思うほとんどの人間は、歩きスマホ人間に道を譲る決断をしてしまう。

歩きスマホ人間は、特に何をするでもなく、まんまと自分の歩行経路を確保したわけである。

彼は、誰はばかることなく堂々と己が道を闊歩して見せる。

これが繰り返されると、彼の頭の中では、『歩きスマホには道を譲らなければならない』というなんとも都合のよい規範がいとも簡単に作られていく。

一部始終をそばにいた彼の子供が見ていたとする。

幼い子供は『反面教師』などという難しい言葉を知らない。

批判能力のない子供にとって、親は、言うなれば『全面』教師なのだ。

相手方が文句も言わず道を譲っている以上、もはや歩きスマホは、子供にとっては『善行』として受け止められるようになる。

この親にしてこの子あり、とはまさにこのことだ。

彼ら親子には、倫理や道徳という言葉は一切通じない。

自分のことしか頭にない、他人は自己にひれ伏す存在としか見ていない自己中人間の典型例であり、それが、親から子へと受け継がれた瞬間である。

 

食事のマナー

 

  さらに例を挙げてみよう。

よく、人前であるにもかかわらず、食べるときにクチャクチャと口を開けて噛む人間がいる。

そういう人間ほど、食事時間がしつこいほど長い。

明らかに、身近にいる人間に嫌悪感を与えている。

にもかかわらず、当の本人は、マナー違反の認識がない。

むしろ、美味しさを噛み締めて、満足している様子である。

彼の親がどうだったかは知らない。

しかし、にわかについた習慣とも考えられず、おそらくは、成長期の何処かの段階で親が指摘できたはずなのである。

人は食べること無しには生きていけない。

『人』と『食』は生涯にわたって切っても切れぬ関係にある。

また、好むと好まざるとにかかわらず、人は社会の中で生きている。

決して、自分だけが生きることを許された特別な人間ではない。

つまりは、社会の中での食事のあり方が問われるのである。

クチャクチャするのは、社会的に承認された食べ方とは言えない。

大部分の人間は、これを不快に感じるのである。

そうであるなら、できるだけ、不愉快な音や下品な食べ方などを慎み、快適な食事の環境を維持すべき必要に迫られるのも当然の成り行きだろう。

いかに自分にとって快適だとしても、人が共存していることを考えれば、控えねばならない。

ところが、我慢や遠慮を知らない自己中人間は、人前であろうがどこであろうが、平気で我流を通す。

 

偽善者たち

 

  思い付きで卑近な例を挙げてきたが、こんな例は、枚挙にいとまがない。

通事故やあおり運転の被害が後を絶たないのも、運転者が自己中人間と考えればうなずける。

自分だけ助かろうとマスク欲しさに狂ったように並ぶのも同じである。

公共の精神が姿を消し、悪しき『自由』が蔓延しているのだ。

自分さえよければ、他人はどうなってもよいのか?

「自分以外の人間が、クルマで死のうが、コロナで死のうが、どうでもよい。

自分が、自らのやり方でスマホや食事を楽しめればそれでよい。」

こんな風に口に出して開き直っている人間はさすがに少ない。

実際は、亡くなった方々に対して、一応、かたちだけ悲しんでみせる人間が大半である。

私はこんな人間に対しても怒りが込み上げる。

「だったら、運転するなよ。マスク欲しさに列をつくるなよ。この偽善者め!」