「元気ですか〜❗️アントニオ猪木です。」

今週のお題「元気の秘訣」

 

 「元気があれば何でもできる!」ということで、今回はプロレスの話をしてみたい。

 

 私の青春時代はズバリ、新日本プロレス闘魂三銃士全日本プロレスの四天王が大活躍していた。蝶野・武藤・橋本・三沢・小橋・川田・田上。いずれも皆、個性的で魅力的だった。

 

<新日本プロレス編>

蝶野正洋といえば、喧嘩キックからのSTF(S:ステップ・オーバー・T:トー・ホールド・ウィズ・F:フェイスロック)。G1夏男。nWoteam2000天山広吉との蝶天タッグ。独特の息づかい。マイクパフォーマンスの凄み。控え室では大暴れ。ドイツ人の奥様。入場テーマ曲はおなじみ『CRASH』。蝶野といえば、黒。そして、サングラス。当時、売れに売れた、nWoのTシャツ。“アリストトリスト”オンラインショップの経営。

 

武藤敬司といえば、ドラゴンスクリューからの足四の字、ムーサルトプレス、シャイニングウィザード。まさしくジーニアス。ハンサム。アメリカ仕込みのパフォーマンス。グレート・ムタ。突然、丸坊主全日本プロレスの社長になったり、アメリカからビル・ゴールドバーグ呼んだりと、やることが大きかった。ああ、三沢とのシングルマッチが見たかった。テーマ曲は『HOLD OUT 』と『TRIUMPH』。カッコよすぎ。

 

橋本真也といえば、重爆キック。垂直落下DDT 。袈裟斬りチョップの連打。135〜140kgの説得力ある体。破壊王の異名を持つ。パンタロンに鉢巻き。テーマ曲の『爆勝宣言』はあまりにも有名。IWGP王者に輝くこと3度。しかも、強敵相手に9回、7回と防衛を繰り返し、長期政権を築いた。因みに、橋本が第19代チャンピオンになり、連続防衛をしている頃、私は浪人生で辛酸をなめていた。ある日の朝、地元の本屋へ行ったところ、なんと、そこのアーケード街にて『午前11時に橋本真也、来たる』の文字が踊っていた。私は固唾を飲んで見守っていたら、大勢人が集まってきた。そして、とうとう生の橋本真也をこの目で、見ることができた。橋本の周りには、ごった返すほどの人だかりで、とても近づけなかった。橋本はそのまま商店街を練り歩き、ファンが差し出すシャツにサインを書いてあげたりしていた。後ろから橋本の背中に覆いかぶさろうとする猛者も現れた。これに対し、橋本は「何だ、この野郎!」と笑いながら対応してあげていた。橋本に生で接するという偶然の機会に恵まれ、今まで以上に、好感を持てるようになった。(その甲斐あってか、翌年の受験では、志望大学に合格出来た。)だから、小川直也に敗れ去った時は悔しかったし、新日本プロレスを退団し、いつの間にか、かの小川と組んでZERO-ONE を立ち上げた時は、内心複雑な気持ちでいっぱいだった。当時、三沢率いるNOAHの面々との抗争もあったが、やはり、私にとっては新日本時代の王者・橋本真也の印象があまりにも鮮烈で本当に惹きつけられた。こんな真っ直ぐで、正直で、ひたむきな橋本が、亡くなったのは残念で仕方がない。彼以上に王者の風格があるレスラーはいないように思う。

 

 

<全日本プロレス編>

三沢光晴といえば、エルボー、フェイスロック、タイガードライバー'91、エメラルドフロウジョン。テーマ曲は『スパルタンX』。過去、器械体操を経験していたこともあり、身のこなしが軽い。また、粘り強さにも定評がある。ジャンボ鶴田を敗った一戦はまさに粘り勝ちだった。いつも冷静沈着で、しばしば、手で顔の汗を払う仕草が印象的。180センチ・110キロの体ながら動きも実にトリッキーで、技のキレも良く、また相手の動きもよく見ている。三冠ヘビー級王座にも何度も就いた全日本の中でも実力ナンバーワン。川田や小橋らを率いて若手中心の超世代軍を結成し、トップレスラー達に対抗した。やがて、「三沢越え」が他のレスラー達の目標となった。後に、大量の仲間を伴い全日本プロレスを離脱。プロレスリング・ノア(NOAH)を設立し、社長に就任。新日本プロレスの蝶野の呼びかけに応じ、東京ドームで蝶野正洋とのシングルマッチに挑み引き分ける。夢の試合の実現に誰しも、身震いを覚えたことだろう。だが、ファンとしては、さらに進んで、武藤敬司とのシングルマッチが見たかった。結局、三沢が亡くなったことで夢のまま終わりを迎えることになってしまった。クールで職人気質だが、魅せ方を心得た本当に魅力的な男だった。自分より大きい相手にも怯むことなく、技を駆使して粘り倒し、ここぞという時のエルボーで3カウントを奪った試合を見る度に、子供だった私は、困難に打ち勝とうとする人間の姿を脳裏に焼き付けたものだ。きっとレスラーだけでなく色々な人達に影響を与えた名レスラーだと思う。こんなレスラーはなかなか出ないのではないか。なお、三沢は、亡くなるまで緑色のロングタイツを履いていたし、技の名前も『エメラルド』フロウジョン、おまけに、NOAHのリングも緑色だった。

 

川田利明といえば、ストレッチプラム、サッカーボールキックパワーボム。三沢と同じ大学の1年後輩。三沢と同じくクールだが、容赦なく責めるところからデインジャラスK、と呼ばれる。しばらくは、超世代軍として、三沢とタッグを組んでいたが、後に田上と組むようになる。三沢との死闘は数知れず。ストレッチプラムの時、前歯が折れたままで歯を食いしばり、相手を絞り上げる姿は恒例。実は私は、元々、全日本プロレスから、プロレスを見出したので、キックといえば川田だった。橋本を知ったのは少し後になるので、重い橋本のキックとどちらが強いのだろうと、夢のカードを頭に描く毎日だった。後に川田は、三沢と袂を分ち全日本プロレスに残る。黒と黄色のロングタイツが印象的。

 

小橋健太といえば、ムーサルトプレス、ラリアットバーニングハンマー。四天王の中では、1番の若手だった。デビュー当初は、自分の進むべき方向性が見えなかったようで、特徴のないレスラーだったが、三沢と組む機会が増え、みるみる頭角を現した。身長や体格にも恵まれており、筋トレを欠かさなかったためか、まるで、スーパーマンのように『正義の味方』という言葉がふさわしいほどに変貌を遂げた。さらに、生来の生真面目さと礼儀正しさも表情に表れており、はっきり言って、プロレス界一カッコよかった。もちろん実力もピカイチで、スタンハンセンに教えを乞い、ラリアットを自分のモノにした。三沢曰く「小橋のラリアットはまるで大木が飛んでくるよう」だそうで、確かに見ていて迫力があった。ヒットすれば、一撃で、3カウントを奪えるほどだった。また、いかにもスターらしく、目立つようなオレンジのタイツを履いていた。(後に、ブラックへと変更した。)そのため、オレンジクラッシュと呼ばれた。技にしろ、色にしろ自分の特徴を見事に引き出せた小橋。名レスラーの死が相次ぐ中、小橋も闘病生活に苦しんだが、見事に克服し、無事引退したことは本当に良かったと思う。

 

田上明といえば、喉輪落とし。力士出身。小橋と同期だが、小橋より年上。相当苦労したようだ。ジャンボ鶴田に見出され、超世代軍を抜け、やがては、川田と聖鬼軍を結成。世界タッグ王座には6度の戴冠を果たす。シングルでも三沢から初勝利を挙げた。しかし一方では、当時、実力をつけつつあった、秋山準に3カウントを奪われたこともあり、四天王から、五強の門を開いてしまった。

 

 

まだ、若すぎた私にその身をもって元気や勇気を分けてくれたプロレスラーの皆さん、あなた方のことは決して忘れない。

最後に、1998年、東京ドームにおけるアントニオ猪木のスピーチを紹介して終わりにしたい。

 

この道を行けば

どうなるものか

危ぶむなかれ

危ぶめば道はなし

踏み出せば

その一足が道となり

その一足が道となる

迷わず行けよ

行けばわかるさ

行くぞ〜!イ〜チ・二〜・サン・ダー‼️猪木、ボンバイエ!猪木、ボンバイエ!ファイト!