大河ドラマ『いだてん』が実はおもしろかった件

    現在放送中の大河ドラマ『いだてん』。いろいろと酷評されているが、本作はこれまでにない新たな手法を多分に取り入れることによって面白さを引き出した、ある意味画期的な新大河だ。今回は『いだてん』が新大河だと考えられる理由、にもかかわらず酷評されている理由を中心に語りたい。

大河にマラソン選手

 本作は日本人で初めてオリンピックに出場した男、金栗四三と日本にオリンピックを招致した男、田畑政治の2人を描くドラマである。2人主人公である点や明治から昭和までという近代を取り扱った点でこれまでの大河とは大きく違っている。6月現在、金栗編の後半といったところだろうか。歴史好きで大河にはことのほかうるさい私だが、恥ずかしながらこの金栗四三という人物のことはほとんど知らなかった。なぜ、あえてマラソン選手なのか、当初は疑問しか浮かばなかった。

 

私が評価したクドカン流調理法

    この知名度の低い人物を主人公にした『いだてん』の調理を任されたのはご存じクドカンこと宮藤官九郎氏だ。では、以下では独自の解釈でクドカン流調理法を分析してみよう。

クドカン流調理法その1:キャラを立てる

 本作は実にキャラクターの個性が際立っている。金栗四三自体の知名度が低いわけであるから、当然、その取り巻き連中の知名度も低い人物が多いのは仕方のないことだ。このままでは、物語の前提である登場人物が頭に入ってこない。そこで、各キャラに固有の個性を与えられている。普段の大河よりも話し方や態度などにおいてより細かな印象づけが行われている

 ・金栗四三…終始熊本弁を使い、真面目で実直な性格が出すぎて、コミカルな面が見え隠れする。前半部分では椅子などに腰掛けるよう勧められてもずっと立ったままで話を続けるやりとりが繰り返しあった。また、よく人に「かなぐり君」と名前を呼ばれては「かなくりです」と訂正するが相手は気にすることなく話を続けるシーンも繰り返しあった。一連のお約束のシーンと言えるだろう。

 ・三島弥彦金栗四三よりも年上でやはり日本人初のオリンピック選手である。名家の出でしかも東大卒でありながら天狗倶楽部という組織に所属しており、しばしば気合いを入れるために独特のポーズをとって鼓舞する。

 ・美川秀信金栗四三の同級生。いつも金栗四三のことを金栗氏と呼ぶ。前半では頻繁に登場し金栗氏に引っ張り回され困惑するパターンが多かった。

 ・嘉納治五郎…本ドラマの中でも知名度はトップクラス。言わずと知れた柔道の生みの親だが、校長でもあり、いつも金栗たち生徒や選手のことを第一に考えてくれる情熱家で熱血漢。でも、時々情熱が空回りして周囲を困らせる。

(後の人物像は後日、連載予定です。)

クドカン流調理法その2:それこそ韋駄天のようなスピーディな展開

 大河ドラマの特徴のひとつとして多くの他の日本のドラマ同様にテンポが遅いということが挙げられる。そもそも本編に関係のないシーンをダラダラ・モタモタと何分もかけることが多く、こんなところで貴重な時間を使うのならもっと取り上げるべき出来事があるだろうとはがゆい思いをすることも少なくない。しかし、『いだてん』はある展開から次の展開へそのまた次の展開へと息をつく暇もないほど急激に流れる。実にテンポが速い。まどろっこしい所はナレーションをうまく使ってさらっと終わらせる。それでいて、描くべきところは濃厚に描くという姿勢も忘れてはいない。ついでに言うとみんな結構早口でしかも多くの内容をを矢継ぎ早に話す。だから45分間で結構内容が詰まっている。どちらかといえば海外ドラマっぽい。

クドカン流調理法その3:ナレーションの活用

    今回の大河で見逃せないのがドラマに占めるナレーションの割合が相対的に大きいことである。各話の最初と最後、場面展開、用語説明にとどまらず、キャラ同士のやりとりだと煩雑になりそうなシーンをナレーションでまとめてみたり、はたまたマラソンシーンではナレーションを利用して実況もしている。湿っぽくなりがちな大河を第三者目線で少しドライにしてくれる作用がある。

クドカン流調理法その4:終始ユーモアがちりばめられている

    大河の雰囲気は毎回異なっており、大きくシリアス路線とコミカル路線に分けられる。今回は先程からも繰り返し言っているがコミカル路線だろう。だから雰囲気が暗く沈みこむようなシーンはまずない。一つ重要なのことは、コミカルといっても底抜けにただ明るいだけだと、はちゃめちゃなドタバタ劇で終わってしまう。そうではなく、目標を見失わずにひたすらに邁進する主人公の姿が軸に据えられ、その上で随所にユーモアが散りばめられている、といった具合なのだ。

なぜ酷評されているのか

    これは結局、上に書いた4つの調理法の裏返しが答えになる。馴染みのない登場人物があまりにも多すぎて各キャラに与えられた個性が頭に定着しにくい。展開も口調も早いから話についていけない。加えて本作の構成が1964年から金栗時代を振り返るという2段構えになっており頻繁に2つの時代を行ったり来たりするためある種、頭の切り替えを視聴者に要求する形になり分かりにくい。ナレーション大河でドラマというよりドキュメントだ。客観的すぎて登場人物に共感できないし、ドラマにも没入できない。こんな理由で大河常連組が離れていったのだろう。

お決まり大河からの脱皮

    大河ドラマはもはや50年の歴史があり、それこそ大河ドラマのドラマができそうだ。この長い間に培われた大河ドラマにはある種、流儀とも呼べる型があり、現在に至って定着している。しかし、どんな技法にも長所、短所が存在する。だから、確立された流儀に反する新たな流儀がいきなり出てきてもすんなりとは受け入れられないのは理解できる。幕末以後の近代は過去の大河でもほとんど触れられておらず、であるがゆえに近代史上の人物はあまり馴染みがないのは事実である。どちらかといえば、戦国時代、幕末動乱の方がはるかに馴染みがあり安心できる。しかし、そうかといって、いつまでも近代史から逃げてお馴染みの時代をグルグルと行ったり来たりしていたのでは、永久に近代史のドラマ化ができなくなる。お馴染みの織田信長坂本龍馬といったある意味、予測可能性が担保されたお決まりの大河も確かによい。しかし、主人公たちが歴史上の重要な出来事とどのようにして関わることになるのかほとんど分からない中で、その都度、次回の展開が気になるような大河があってもよい。

このブログでは、これからも『いだてん』を応援します。